murmur

形見にしたかった服はすでに捨てていた

母とお出かけがてら食事をしていたら、亡くなった父がよく着ていて可愛かったからあれは残しておきたいな、と思っていた服についての話になった。
今現在、母は家の中にある父のものや、いらなくなったものをたくさん処分したり、それに伴い家具を移動したりと色々やっている。見当たらないな、あれお気に入りだったよね、とジャケットを探していたのだけど、クローゼットの中の服を処分しようとほとんど目を通したけどやはりなかったらしい。

なので、もしかしたらあれは亡くなった当日にも着ていたかもしれない。
そして、エンゼルケアの際に病院で買った浴衣に着替えさしてもらったので、着ていた服は全てビニール袋に入れて渡された。

あの時はとてもあのビニール袋の中を改める気にはなれなかった。
できれば見たくない。

そしてあれは、母が資源ごみの日にとりあえず下着だけは可燃ゴミだろうとなんとかそれを取り出したのみで、すぐ捨ててしまった。

正直、しょうがないと思った。

だって、とてもあの袋の中を落ち着いて見れるような気分ではなかった。
突然父が亡くなったしまった現実を受け入れることに精一杯だったし、なんとかお葬式をあげて、火葬して、骨を拾うだけで他のことはできなかった。
そうでなくとも役所やら銀行やら、手続きが山のように控えていた。

母を責めることなんてとてもできない。
あの袋の処分を母に押し付けてしまっていたというのに。

ビニール袋に服が入っている様は、病棟に勤めているとよく見る。
患者の汚れた寝衣が入っていることが多かったけれど、亡くなった時にも身の回りのものをとりあえずビニール袋に入れて渡す。特に入院時は着て来ていた服をビニール袋に入れて家族に渡すので、あぁよく見るあれだ。と思った。

もったいないなぁ。
と思う。しょうがない。どうしても思ってしまう。
でも、どうしたってあの袋の中身をちゃんと見ようという気にはなれなかった。
今でも無理だと思う。

最期の日も着てたんだね。
よく着てたもんね。
だったらせめて棺に入れてあげたかったなぁとも思う。
資源ごみだから、きっと着られるような服は発展途上国とかに流れていくんだろうなぁ。

つくづく現実ってままならない。
正直こういう文章を書くのはいまだに涙が出てくるし、しんどいんだけど、でもすぐ忘れてしまうから。私は日記をwebで公開するのが好きで、遡れば中高生の頃自分のホームページを作ってそこで日記をつけていたし、そのあとはブログに移行した。
なんだかんだちゃんと記録になっている。
読み返すとその時の関心ごとがわかる。書いてない時は本当に空白期間だ。

誰のためでもなく自分のために残しておきたい。
若い時には写真を残すことが嫌いだった。けれど、なんだかんだ人の死を経験すると記録を残すことは自分以外の人のためでもあるんだなと分かる。
私は独り身で生涯を終える予定なので、長生きしたとしたら甥っ子や姪っ子の世話になると思うので、大して記録はいらないのではと思うけど、もし姉妹より先に死んだ時には少しは役に立つだろう。
ブログは誰にも知らせてはいないので、本当に自己満足。私のための記録だ。
動画もちゃんと人を入れて撮影しよう。そう思った。

死ぬ時って、本当に人は何も持っていけないね。
なるべく物を持ちたくないなとここ何年か思っているけど、物なんて生活できる分だけあれば十分だ。経験や人との関わりや、手に残らないものの価値のなんと大きいことか。
きっとこれが、私が必要性を感じない結婚や子どもを持つことにもつながるんだろうな。

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